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短歌と感想ほかまとめ

企画「地獄めぐりの旅」に参加しました

企画「地獄めぐりの旅」に参加しました。


2023.11.05までファミマ・ローソンでネットプリント版が配信されています↓


振り返りを書こうか、このままにしておいた方がいいか、と考えつつ何も出来ていなかったんですが、先日こちらの連作にふれていただいたこともあり、折角なので断片だけでも書いておこうと思います。


わたしは東京で生まれ育ったのですが、両親も祖父母も皆長崎出身、祖母は父方母方どちらも被爆しています。そのため、わたしは被爆3世です。ただ、そのことを誰かに話すことは稀です。
長崎では8月9日11時2分に黙祷を知らせるサイレンが鳴ります。しかし東京にはそれがない。なるべくその日その時間には黙祷をするよう意識していますが、家にいないと難しいこともあります。
社会人になって、その日職場にいるときは、なるべくその時間に合わせて休憩を入れ、自席を離れてひとり黙祷する、などしていました。他の人もいる中で黙祷することはできなかった。そもそも、その日であることを誰かに話そうとも思えませんでした。
原爆について、祖母や親族のことについて、人に伝えるだけのものをわたしは持っていない。だから、自ら情報発信することであるとか、たとえば被爆体験を語り継ぐ取り組みへ協力することもできない。そんな半端な状態で被爆3世とだけ言っても何にもならないと、ずっと思っていました。

8月9日。今年は家にいて、平和祈念式典も見られたので、11時2分に黙祷ができました。また今年の「長崎平和宣言」は本当に心に響きました。これを読まれた長崎市長鈴木史朗さんは被爆2世だといいます。

同時期、NHK長崎放送局の取材記事「THE RAMPAGE 浦川翔平が見つめる長崎原爆」も読みました。浦川さんの等身大の言葉も、とてもよかった。黙祷について、長崎ではない街にいて感じたギャップのことは浦川さんも話されていました。

この、ふたつの原爆に関する言葉や思い、長崎市長の平和宣言と、THE RAMPAGE浦川さんの記事は、自分自身のことを顧みるきっかけになりました。
分かっていることが少なくても、知っていくことはできるし、そして、もしかしたら、そのときのことをつぶさに語れなくても、分からない者には分からないなりに、何かできることがあるのかもしれない。
わたしが被爆3世であることは本当だし、隠すことでもない。それでも明らかにしてこなかったのは、単純に自分の覚悟が足らないだけなのではないか?


企画「地獄めぐりの旅」に提出した3首連作は、実際にあったことを元にしています。小学生のときのわたしと、母方の祖母の話です。
浦上天主堂カトリック浦上教会)は祖母の家から近い場所にあり、祖母やわたしの家族は皆カトリック信者なので、日曜日になると教会まで揃って行きました。
教会までの急な坂道の途中に、聖人像が数体置かれている場所があり、ある日祖母はわたしを連れてその前に立ちました。首のない聖人像。小さな頃のわたしには、とても恐ろしく見えました。
怖がってよく見ようとしないわたしを祖母は叱らなかった。それでも、繋いだ手はきつく離さず、「よう見とかんば」と諭されたのを覚えています。
長崎の原爆資料館に連れられて行ったのも、その出来事と同じくらいの時期だったと記憶しています。けれどわたしは、ここでもやはり、すべてを見られませんでした。あまりにも恐ろしく、途中で気分が悪くなってしまったためです。
戦争があったことは分かる。原爆というものが落とされて、祖母の家族や周りの人たちが大勢亡くなったことも聞いていた。それでも、本当に何があったのか、想像することすらうまく出来ていなかった。
一緒に行った母や兄からは、昔の原爆資料館の方がもっと直接的で生々しい表現だった、今は新しく内容も見直されているから、ちゃんと見られるはずだよ、と聞かされました。それでも、どうしてもわたしは、もう一度原爆資料館に入ることが出来なかった。

祖母が自分の体験を話してくれたのは、そこから更に数年が経ってからです。
祖母は原爆でほとんどの家族を亡くしました。祖母たちの住んでいた家は爆心地にとても近かった。煉瓦造りだった浦上天主堂も大きく崩れ落ちました。
祖母は当時の職場が離れた場所にあったため、大きな怪我もなく無事でした。しかし家にいた家族や、外出していた家族はほとんどが瞬間的に命を奪われてしまった。また、祖母の妹は学徒動員で工場に行っており、そこで被爆したのだそうです。
自宅があった場所に辿り着いた祖母は、ぽつんと立っている妹を見つけます。妹は火傷を負っていて、しかし特別な治療も受けられる状況にはありませんでした。その夜は防空壕に入って過ごしましたが、妹は膿んだ自分の肉が臭うだろうと最後まで祖母を気遣ったそうです。そのうち意識が薄れ、マリア様の幻を見て、賛美歌を歌いながら亡くなったのだと祖母は話してくれました。
職場からどうにか歩いて帰ってくる途中に、多くの傷つき水を求めて亡くなった人たちを見た。おそらくは「助けてください」「水をください」と声をかけられもしただろうけれど、何も出来なかった。大きな火傷や怪我を負った妹をただ看取るしかなかった。
ただ、祖母は、そのときのことを地獄とは言わなかった。かわりに強く印象に残っているのは、その日のことを、その当時のことを、本当にはもっとたくさん見て聞いているはずだけれど、よく覚えていないのだと静かに話してくれたことでした。

覚えていないこと。何もかも無我夢中で生きていくほかなかった、また、覚えているにはあまりにも過酷だったろう当時のこと。
それでも祖母はわたしやきょうだいに原爆のことを話してくれたのだ、と今になって深く思います。また、身近な人たちに話すだけではなく、依頼があれば、テレビや新聞の取材にも応じていたようです。
今年の夏、ふとそのことを思い出し、祖母の名前でインターネット上の情報を検索してみました。すると、いくつもいくつも、祖母が取材に応じた記事や動画が出てきました。
祖母は今、高齢者介護施設に入居しています。離れて暮らしている上、コロナ感染対策がなされていることもあり、面会することも簡単ではありません。また、かなり高齢となっていて、いつまであの夏に経験したことを話してもらえるのかも分かりません。
でも、祖母は、祖母が語ったことは、すべてではなくても、ここに残っている。いつか忘れ去られてしまうかもしれない、本当にちっぽけなひとりの過去ですが、インターネット上の取材記事や動画が削除されない限り、半永久的に残り続ける。
そう実感して、祖母の経験や感情、ひとりの過去を残すことは、わたしにも出来るかもしれない、と思いました。大々的なものでなくてもいい。ただ、何かのきっかけで、誰かの目にふれるなら。そうしてそれが何かを感じる、考えることに繋がるのなら。


企画「地獄めぐりの旅」に何か短歌を出したい、と思ったとき、自分にとっての地獄とは何だろう、とまず考えました。
身近な生活の中にある地獄。辛い出来事、苦しさを感じた場面、自分が抱くどろどろとした感情。いくつか書き出してはみたものの、どれもしっくりと来ませんでした。
それでもなお、地獄のイメージを思い浮かべていくうち、戦争、というものがふっと頭の中に出てきました。今も世界ではいくつもの争いが起きています。幸いなことに今の日本国内ではそういった場面を見ることはありませんが、ただ、日本も数十年前には戦争をしていて、戦地だけではなく日本国内でも、空襲や原爆、沖縄の地上戦などで亡くなられた方が大勢いたことは、忘れてはならないと思います。
地獄というなら、わたし自身は見てはいないけれど、祖母が見た原爆投下後の長崎も、そうだったのではないか。想像することすら恐ろしく、目を背けたくなるような光景を、祖母は見て、そこからさらに生き、子どもを産んだ。その子がまた子を産んで、だから、わたしは祖母に出会った。祖母が経験したことを、祖母自身の言葉で聞くことが出来た。
祖母が生きて、見てきたもののすべてを知ることは出来ませんが、祖母が話してくれたこと、伝えようとしてくれたことを、わたしは少なからず受け取っているはず。そう思って記憶をたぐり、そのときの情景や感情を思い出して言葉にかえていったものが、この3首連作でした。

地獄とは言わないままに妹の死を語りゆく八月の祖母
覚えとらんことも多かと長崎に生きて幾度の夏をあなたは
首のない聖人像の前に立ち握られた手の強かったこと


自分自身が経験したことのないものを詠んでいいのか、という思いは、少なからずありました。戦争という内容を、軽々しく扱うことになりはしないか。短歌のかたちにすることで、単なる創作の材料になってしまわないか。
その恐れは今もずっと残っています。この文章を書くこと自体も、どうしようかずっと悩んでいて、実際に書き出した今も、本当に思ったことや感じたこと以上の装飾をつけてはいないか、不安が拭えません。
それでも、今回かたちになったこの3首と、ここに書いた内容は、祖母とわたしにあったことを、出来る限りそのまま書き出したつもりです。祖母の見たもの、感じたことを代弁するのではなく、あくまでわたしが祖母から受け取ったものを描き出すだけにつとめました。
幼いころのわたしが見たもの、感じたことは、本当にちっぽけで、祖母とのやりとりだって、ごくささやかな出来事に過ぎません。祖母がわたしにあの聖人像を見せたことも、妹の話をしたことも、祖母やわたしがいなくなれば消えてしまう、それくらいの。
それでも今、短歌にすることで、ブログ記事を書くことで、少しだけでもかたちになって残るならいいと思います。本当に小さなものでしかないのは分かっています。それでも。


何かあればこちらまで。